法律や教育を通して社会貢献します

行政書士事務所の枠を越えた全国規模の事業を展開しています。

代表挨拶と略歴

アクロス行政書士事務所 所長:渡邊政道
日本行政書士会連合会 登録第02102430号
千葉県行政書士会登録第01092号 行政書士
宅地建物取引士、第3種電気主任技術者、第一種電気工事士、2級ボイラー技士、アナログ3種電話工事士、第4類危険物取扱者資格。
私の変な略歴を書き記します。暇な方は読んで見てください。

 コンピューターのハードウエア学科の学校を卒業した後、先生の勧めで塩ビ工場にシステムエンジニアとして就職しました。当時としては最先端のNECの中型機があり、給与計算や在庫管理システムの構築をしておりました。しかし会社の空気全体が塩ビ臭く、社員食堂の味噌汁も塩ビの匂いが充満して吐き気を覚えました。システム担当なのに工場のネズミ捕獲や当直なんかもやらされ、嫌気が差したのと若いゆえに半年で辞めて、造船会社に転職しました。ここでは主に吊り橋の桁の構造計算や海底トンネル掘削の切り刃の設計をしておりました。ときどき降ってわいたようにプラント工場の煙突や高圧鉄塔の構造設計もしており、とにかく毎日早朝から夜中まで働いて過労で一時期死にそうになりました。疲労困憊で新橋や有楽町のガード下で夜中にラーメンをすすっていた苦い思い出がばかりが残っております。その影響か私は今でもラーメンがあまり好きではありません。

 当時の日本は景気がひどく悪く、職業安定所には失業者があふれ、転職するにしてもなんの資格も無く、かといって以前勤めていた塩ビ臭い化学合成会社には二度と戻りたくはありませんでした。やはり独立起業するしかないと日々考えておりました。ある日書店に行き、独立起業の本をパラパラ見ていると、法律系の資格を取得すると独立しやすい、との記述を見つけました。

転職また転職のはてに

 しかし、法律は私がもっとも不得意とする分野でして、それでも生活していくにはやるしかなく、勤めが終わると近所の夜間大学の法律科に通う日々が続きました。ところがやってみるとこれが意外とおもしろく、特に憲法は感動ものでした。

 その後、造船会社は退職し、行政書士、宅地建物取引主任者、第三種電気主任技術者と将来の独立に備えて資格を取りまくっておりました。合格してもすぐ開業できるはずもなく、失業して暇なのでアルバイトニュースを毎日パラパラとめくっていると「行政書士補助事務員募集」の文字が飛び込んできました。何となく行って見ると「明日からスグ来い」とのことで何とか仕事しながら事務所経営のノウハウも学ぶことができました。ところがこの事務所の仕事もひどく単調で、急に嫌になり、辞めて知人のペンキ屋に弟子入りし、毎日足場に乗ってペンキ塗りの毎日でした。夏場の38度の日に屋根に登りペンキ塗りをしていたら暑さで靴のゴムが溶けてきました。楽しい仲間に囲まれ続けたかったのですがシンナーの臭いで頭痛が悪化し、ペンキ屋も辞め、新聞配達をしながらぶらぶらと暮らしておりました。乞食と新聞配達は3日やったらやめられないと販売店の先輩に聞いておりましたが、そのとおりでして、ぼうぜんと3年ほど暮らしておりましたが、配達中のバイクの無謀運転で車とぶつかり怪我をしてあえなく廃業。その後電気の知識を生かそうと某特許事務所で明細書と図面を書く仕事を得て、特許事務所通いが始まりました。専門は電子回路でしたが、小さな事務所ゆえにアイデアおもちゃから大型冷凍プラントまで何でもありで、とてもおもしろい日々でありました。こんなに楽しい仕事なら一生続けたいと考え、弁理士試験に何度か挑戦しようとして、結局あきらめました。 当時は合格率3パーセントくらい。まあ無理だとは思いましたが。

 弁理士にならないのなら特許事務所に勤めていてもムダなのでそこも辞め、ドリル用特殊合金の工場で働いたりビル管理会社でボイラーや高電圧変電設備の保守点検をする巡回メンテの会社を数社渡り歩きました。
 その後業務用冷蔵庫の製造ラインで働いたり、またまた失業して少しブラブラしてからバイトをあれやこれやと行い、何が何だかわからないくらいイロイロやった後にNHKのBS放送契約を委託で取るという比較的自由な仕事を始めました。これは毎日街をブラブラ歩き回る仕事で、町中の思わぬ発見がある大変おもしろいものでした。特にショッピングセンター巡りが大好きで、毎日様々な地区のショッピングセンターを回っておりました。 このときの経験が後の仕事に役立つとは思いもよりませんでした。

 しかし楽しい毎日も続くことは無く、その後NHKから1999年12月末をもってこの仕事が無くなるとの通達を受けました。まあパートなので仕方が無いですね。年末までに次の仕事を探そうと動き回るのですが、年が明けて1月になっても何の仕事も無く、これは困った事だ、また失業かと考えていたそのタイミングで友人から「不動産会社が売りに出ています。私と共同で購入しませんか。」との朗報が。80歳くらいの社長様はとても良い方で、若い人が会社を継いでくれれば値段はいくらでも良いと言いますので、かなりの安値で不動産会社を購入出来ました。これを機会に個人事業の行政書士事務所と会社経営の不動産業者として独立したのは西暦2000年(平成12年)3月でした。

行政書士事務所の開業と発展

 最初はワンルームマンションの一室を借りて友人と2人で始めました。友人は損害保険の外交員なのでほとんど事務所は私一人。親から借りた数十万円で開業したのは良いものの、行政書士も不動産も仕事は皆無で貯金は減るばかり。 毎日事務所の机に座って様々な本ばかり読んでおりました。しかしとうとう1年くらいで全財産が千円くらいになってしまいました。自宅から事務所への通勤バス代も無いはめになり、仕方ないので徒歩で田んぼ越えの真っ暗な道を歩いて帰宅したら途中で野犬に襲われそうになりました。これではたまらんと廃業を決意したとたん仕事が舞い込んで何とか家賃を払うことができました。 その後も徐々に友人知人からボツボツ仕事が来るようになり、ある日ホームページを開設したところメールを通じて多くの仕事の依頼が来ました。

 ネットの可能性に将来性を見いだした私はせっせとホームページ作りに一日の大半を使う日々を送ることになります。特に気に懸けたのは文章の読みやすさとサイトのわかりやすさです。 たまに黒地に青い字の目がチカチカするホームページを見かけますが、私が目指しているのは常にレポート用紙に黒インクで書いたような読みやすさです。このサイトもそのような趣旨で作成してあります。

 ある日電車に乗っていたらたまたま向かいの席の人が「NPO法人開設ガイドブック」を読んでおりました。これはもしかして行けるのではと思い、試しに「NPO設立申請手続き代行します」というホームページを立ち上げたところ、いきなり全国からNPO設立依頼が殺到しました。このため開業から数年は依頼者との面談と県庁への申請手続で全国を旅から旅の毎日でした。NPOが下火になると今度は会社法が改正になり、1円で作る株式会社の起業ブームが起こり、またまた1円会社の設立に奔走する毎日でした。行政書士はこのように何とか軌道に乗ってきたのです。

 しかしせっかく購入した不動産会社の収入はほぼゼロ。宅建免許の更新に行くと県庁の係官から「無収入で今までどのようにして生活していたのですか?」と聞かれるしまつ。他に収入があるのでと口を濁しておりました。ちょうどその頃にタイミング良く弟が勤務していた銀行が経営破綻してしまい、私の所に転がり込んできて一緒に仕事をするようになりました。弟は私と違って妻子がいたので食べていくためにはなんとしても一定の収入が必要で、とにかくガンガン不動産業の営業で暴れ回り、不動産手数料収入もうなぎ登りで増えていきました。やがて不動産のお客さまの中に偶然学習塾チェーンを全国展開をしている社長さまがおり、この方の紹介で学習塾事業に手を出すことになります。

 どうせすぐに潰れるだろうと期待しないで事務所のすぐ近くのビルに1号店を出したところ生徒がすぐ50人くらい集まりました。 1年ほどしたら社長さまから「近所のショッピングセンターに空きがあるので塾を出さないか?」との打診があり、二つ返事で出すことにしました。このショッピングセンターは開業時テナントの9割くらいが退店したお化け屋敷みたいな所でしたが、NHK時代の経験で必ず将来大化けする(良い意味のお化け)と見込み出店を決めました。やはりもくろみどおりにショッピングセンターは急速に回復し、塾も開校から1年程度で生徒が70人を超えてきました。その後はこれはと思うショッピングセンターを見つけては出店を繰り返し、ショッピングセンター型の学習塾の先駆けになることができました。

 塾が落ち着いた頃に金融商品取引業が改正となり、行政書士業務として投資ファンド設立依頼が来るようになりました。投資ファンドとは複数の人々からお金を集めて何かに投資し、出資者はその見返りをもらうというものです。中にはかなり怪しい人々もおりましたが仕事になるならとドンドン依頼を引き受けました。 しかしこれが悲劇の始まりでした。

悲劇の始まり

 投資ファンドの依頼が増えるにつれて依頼してきたファンド関係者が警察に逮捕される事件が頻発し、時々新聞をみると「ファンドで何億集めて逮捕」といった記事に私の依頼者の名前が載るようになりました。それを面白がって新聞記事を切り取り、壁に貼ったりして遊んでいたら、そのうちに刑事が2人組みで事務所に聞き込みに来るようになりました。それでも毎回刑事さんと様々な過去の事件の話をしてこれが結構おもしろいのでした。 なぜ刑事は2人なのか。それは1人が質問してもう一人が表情を読むという役割分担があったのです。人間の表情は嘘をつかないようです。これはその後不動産の仕事でもとても参考になりました。いわば詐欺師を見抜く力が付いたのです。

 次回は何が来るかと楽しみにしておりましたら、ある冬の朝早くに玄関の扉をドンドン叩く音がして何事かと飛び出すと「東京国税局査察部です。家宅捜査に参りました」といって裁判所の家宅捜査令状を見せられました。確かに令状には私の氏名と住所、裁判官の印がありました。家宅捜査なんてテレビの刑事ドラマでしか知りませんでしたので、これは相当おもしろくなってきたと興奮し、ドキドキしました。捜査官は2日間かけてみっちり調べると述べ、家の中をひっくり返す作業をしておりましたが、別に何も悪いことはしていないので堂々と日なたぼっこを決め込んで茶をすすりながらのんびり捜査員を眺めておりました。その後調べが進むとたまたまファンド設立依頼をしてきた私の顧客が数億円の脱税をして捕まり、てっきり関係者だと思い込んだ東京国税局が全くの誤解で捜査しているらしいことが判明しました。午後からは一緒に経営している塾に行って子供の勉強ぶりを見学したりして、帰り際に私がニコニコしながら「ではまた明日。何時にします?」と言いますといきなり「もう来ません」といってそのまま帰ってしまいました。それから数年してまた東京国税局の資料調査部とかいう方もお見えになり、顧問税理士に言わせると「国税局に2回も入られるのは珍しい」などと言われてしまいました。これ以来ファンド関係の仕事は絶対受けないことにしております。

現在の様子

 現在は主にNPO法人の解散を行っております。以前は設立する方でしたが現在は潰す方に回るとは面白いものです。今は設立した数よりツブした数の方が多くなりました。
 2014年12月からは保有する不動産会社の運営で発達障害児の通所支援施設も沖縄に設置しました。発達障害児とは自閉スペクトラムや注意欠陥多動症、学習障害といった症状を示す子供達のことで、何もせずに大人になりますと様々なトラブルを巻き起こし、引きこもりの原因にもなるとも言われています。通常、障害者といいますと車いすとか白い杖等目に見える障害者を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、最近では目に見えない障害者、つまり発達障害などの脳の障害に起因する障害者が多くなっています。一見それとわからないために多くの学校や職場でいじめや偏見にさらされ、苦しい思いをしております。そんな人々を助けるべく障害児通所支援施設(放課後等デイサービス))を始めました。現在、学びの郷という名護市の施設を運営しております。この施設で少しでも障害のある子ども達に普通の生活が出来るような訓練を施していきたいと考えております。但し、この施設は沖縄にあるため数ヶ月おきにLCCで施設に通う日々を送っております。回りの人からは大変ですね、なんて言われますが、実は行くたびにうまい沖縄そばやマンゴー、サトウキビジュース、パイナップル、ゴーヤちゃんぷるーを食べ、夏場はシュノーケリングもしているので仕事なのか休暇なのか判別不明の状態であることは確かです。最近、施設では勉強や体操ばかりではつまらないので子ども達に農業体験をやらせてはどうかと考え、市民農園を借りました。また体のバランス感覚を磨くため、ボルダリング施設も開設し、足湯やジャングルジムも設置、セラピードッグを3匹飼い始めました。また、きちんと食べることができない子どもが沖縄には多いため子ども食堂まで行う他には無いユニークな施設として近隣の注目を集めています。


 2018年3月にはベトナムのハノイにある語学スクールと合弁事業契約を締結し、現地の日本人駐在員の子供たちに勉強を教える日本人向け学習塾を開設しております。ハノイの街角の屋外喫茶店で激しくクラクションを鳴らしながら走る車やバイクを眺めながら甘いベトナムコーヒーを飲んでいると、私はいったいどこに向かっているのか、人生の先の見えない日々がまだ延々と続くような気がしてなりません。もっともそれは私が一番望んでいた人生なのですが。

事務所概要

事務所名 アクロス行政書士事務所
設立 2000年3月  設立当時の事務所名「渡辺国際行政書士事務所」
事業内容 NPO法人関係、一般社団法人設立、相続・遺言他
所長  渡邊政道
所在地 〒273-0005 千葉県船橋市本町2-10-14船橋サウスビル3F