まだ建設関係の仕事をしていた時分であるが、いつもの集合場所にバイクで乗り付けると親方が難しそうな顔で発注書を睨んでいた。「どうかしたのですか?。」聞くと「病死の部屋の工事が入った。状態はかなりひどいらしい。」詳しく聞くとどうも定期管理でいつも入っている公団住宅で不審死があったらしい。郵便受けに新聞があふれ、管理人が呼びかけても中から反応がないため警察に通報。警官が郵便受に鼻を突っ込むと腐敗臭がしたという。合鍵で中に入ると死体は相当腐敗が進み、その脂が畳を通過して床のコンクリにまで達していたとか。先輩に「そんな所も工事するのですか。」恐る恐る聞くと「そんなのまだましな方。俺たちはもっと酷い事させられた。11階から飛び降りた奴がいてさ。下が防護網なものだから肉片が網の隙間に入り込んで。仕方ないから一日掛けて箸でつまんだよ。」そんな気持ち悪い事を言い出した。とにかく私は車に乗り込み、団地に向かった。
現場に到着するとすでに大工さんが入り込み、天井や床板を全て剥がし、壁も骨組みだけの建築当時のスケルトン状態に戻されていた。玄関から入り、鼻をクンクンさせるがその手のにおいはしないようだ。何となく安心し、トイレや洗面所、風呂の塗装に取りかかった。
そんなある日「今日は首つりの家だよ。」親方がまた変な事を言い出した。この団地は風呂の手前に鋼鉄のパイプが横に走っている。仕事で良くそこを塗装したのだが、住民はこのパイプに紐をかけて首を吊ったらしい。高さも大きさも手頃だったようだ。この日もやはり先輩達と現場に入った。最初は怖かったが、みんなと一緒だと怖くないのである。ところが肝心の首つりパイプは誰も塗装に入らない。工事指示書を見ると確かに色番114オイルペイント塗装とある。「ここは塗らないのですか?。」聞くと、先輩は「一番後輩の渡邊君が塗るんだよ。頑張って。」そう言われたので仕方なく脚立に登り、パイプをしみじみ見た。首つり紐と言っても着物の帯のような柔らかいものだったようなのでパイプに傷や跡が付くわけもなく、ただの汚れたパイプであった。
私はそのパイプを見ながらどんな経緯で死ぬわけになったのか様々考えてみた。失業なのか病気なのかわからないが、絶望して私と同じ目線で見た景色はどんな風に見えたのであろう。そう考えると私も何となく絶望的な気分になってきた。せっかく生まれてきて、親から大切に育てられて、そんな人生の喜怒哀楽全てをリセットするほどのどんな理由に遭遇したのであろうか。今私がこのパイプを塗ることで、その人の死ぬ瞬間までの人生全ての痕跡を塗り消してしまう、そんな奇妙な感覚が脳内に惹起し、手が震える。名前も顔も知らない住民の哀悼を込めて私はパイプ全体をできるだけ丁寧に塗装した。そしてパイプは見違えるように綺麗になり、キラキラと光を浴びて輝くようになった。
道具一式を持ち上げ、私は先輩達の最後にその団地の部屋を後にした。玄関の鉄扉を閉めるその僅かな瞬間、私はもう一度天井を横に伸びるパイプを眺めた。そうしてゆっくりと扉を閉めていき、閉まる直前で一旦手を止めた。そうしてドアのわずか1センチほどの隙間からパイプを凝視しながら「バイバイ。」そう静かにつぶやいてから鍵を掛けた。