変な秘湯探訪

旅行雑記

 栃木の山奥に人知れず存在する秘湯があるという。なんとなく興味を抱き、行くことにした。そんな場所であるからもちろんネット予約もなく、電話をしてみた。遠い感覚のベル音がしばらく鳴り、カチャリと音がするとまるでトンネルの奥から聞こえて来るような不思議な声で「もしもし」と受付が出た。この時点でかなり怪しい気配が漂ってくる。一応氏名と宿泊日等を告げ電話を切るが、何となく嫌なわだかまりに近い感覚が胸に残る。釈然としないが、無視していくことにした。

 JRのひなびた駅に降り立ち、錆びついたバス停で待っているとおんぼろバスがよろよろとやってきた。乗り込むと乗客はほとんどいない。途中のバス停でたまに客が乗ることもあるが、そのほとんどが背中にカゴを括り付け、中に農産物を詰め込んだ老婆だったりする。およそ観光とは縁のない人々の乗り降りを見るとはなしに眺め、気が付くとバスは深い森の中を走っていた。目的の停留所で下車し、バスが過ぎ去ると冷徹で林間とした気配が私を包み込む。静寂とも異なる嫌な空気に冷たいものを感じつつ、温泉への道を探した。道をやや下り気味に歩くと、森林の中へと続く獣道のようなものが見える。凝視すると草むらの中にインクの薄れた看板を発見する。読むと「〇〇温泉はこの山道を歩いて30分ほどのところにあります。案内が必要な方は携帯でこちらへ。」とあり、私が予約で使ったのと同じ電話番号が書かれてあった。この道であれば迷いようがないのでそのまま歩き出す。

 しばらくすると道の下の方からせせらぎが響いてきた。じっと耳を澄ますと川というより滝の音に近いようだ。私はとっさに山道を駆け出した。すると突然視界が開け、渓流のわきに木造の見るからに古ぼけた旅館が姿を現した。全体に黒いような色を帯び、ややひしゃげたような廃屋とも山小屋とも判別がつかないおどろおどろしい建物であった。

 入り口を探すと受付と書かれた扉らしきものがある。私はそろりと近寄り、思い切って引手を左に引いた。そのとたん目の前に闇が広がる。あまりの暗さに目が慣れないのだ。しばらく入り口で固まっていると暗さに慣れてくる。目をしばしばさせていると受付カウンターに坊主頭の男が2人、その右手に同じく坊主頭が1人見えてきた。3名とも藍色の作務衣のような服を着て私をじっと見ている。その目が尋常ではない。蛍のようなキラキラ光る、それでいて鋭い、体を射貫くような眼光は私に恐怖を与えるに十分なものだった。あたりの空気も鋼のように堅い。これはまずいことになった。このまま帰ろうかと一瞬迷ったが、私の口からでた言葉は意思とは裏腹に「予約していた渡邊です。」その音声が発せられたとたん、あたりの空気が砕けるがごとく氷解し、坊主頭3人は破顔一笑、「よくまあこんな遠くまで来てくれました。まあお茶でも飲んで。」大歓迎で部屋に案内された。

 しかし部屋の途中の廊下に祈祷所のようなものがあり、それが気にはなった。白木に漢字がたくさん書かれたものが並べられ、白砂利を敷いたお香漂う不思議な空間である。

 さて、部屋は6帖1間の小さいもので、天井も恐ろしく低い。日本人がまだ小さかった頃の建物なのだろか。食事は箱膳で、木の階段をミシミシさせながら和服の仲居が部屋まで運んできてくれた。その後風呂に行く。風呂は1階にあり、天井近くに高さ2メートルはあろうかと思う天狗の面があり、そのあたりからざぶざぶお湯が噴き出ている。なんとも不気味な風呂であった。夜8時ともなるとあたりは静けさに包まれ、起きていても仕方がないので寝ることとした。

 ところが早朝である。激しい祈祷の音で目が覚める。唸るような声はいつまでも続き、時々「ウオー!」と激しい高まり音がする。方向的にはあの祈祷所のようだ。何やら修験者がお祈りをしているようだ。激しい声とともに錫杖のチャリンという音が間奏的に入り、そのあとかなり大勢の人々の和音がこだまする。仏教のお経とは違う神道に近い高音域がビブラートした幻想的な音であった。私はいったん目が覚めたが、祈祷音を子守歌に又眠り込んだ。

 朝になり、私は帰り支度を始めた。そして後悔した。あまり良い湯治とは言えない旅になってしまったからだ。受付の坊主頭に別れを告げ、私はまたぶらぶらと山道を登りだした。