無縁墓改葬事件

行政書士事件簿

 知人の石屋から墓地を1つ潰してくれないかと依頼があった。私は半信半疑で「墓地とはあの人が葬られている墓地のことですか。」聞くがどうも本当にそうみたいである。何でも駅から徒歩数分の好立地にあり、周りがすべてマンションに取り囲まれているとか。墓地を潰し、中の骨はすべて別に設けてある合祀碑の地下に埋める。その後、跡地は商業ビルやマンションにするようだ。まあ墓地の跡地だったとしても戸建住宅ではなく、ビルなら縁起を気にする人でも大丈夫であろう。

 私は依頼を承諾し、懸案の墓地を早速見に行くことにした。事務所から駅にむかってぶらぶら歩き、独立当時に事務所を構えていた懐かしのビルに差し掛かる。当時は仕事もあまりなく、金はないが時間はあるので事務所で日々読書していた日々のことを思い出す。そのビルを回り込むようにして細い道をさらに駅に向かうとその墓地は現れた。マンションに囲まれたこじんまりした墓地で、再開発に取り残されたようにそこだけが時代錯誤の面影を残している。いわゆる「みなし墓地」であった。

 千葉の船橋では江戸時代から自宅の家の庭や町外れの高台などに墓地を作り、そこに家族がなくなると埋めていたそうだ。いわば一族専用の墓地といえる。その後墓地に関する法律が整備され、その時に現存した墓地はすべて「みなし墓地」と呼ばれるようになった。それ以降は庭に勝手に家族を葬ることは禁止された。そんな墓が船橋にはまだ数多くある。今回の墓地もそのようだ。しかしかなり大きく、ざっと見て墓石が全部で20~30はある。これは大変な事になったと後悔したが、もう間に合わない。何としてもやるしかない。墓石をじっと観察すると文字から推定してすべて江戸時代ごろのもののようで、長年の風化で崩壊しており、中には墓石が折り重なるように倒れて土に埋まっているものもある。雑草が生い茂り、縁故者が来て花を手向けた等の形跡は全くない。多分、関係者すべてが亡くなり、誰も知るものがいなくなった状態であると確信する。そこでまずは石屋に看板を立ててもらうことにした。内容はこの墓地を潰しますので異議がある方はここに連絡してください、といった内容である。これでしばらく名乗り出るものがいないか観察経過期間を設けた。

 その後、石屋に尋ねてみた。「看板の効果はどうですか。名乗り出た方はいますか?」結果はなし。つまり関係一族はすでに滅亡していた。

 次の仕事は改葬許可を市役所からもらう手続きである。天気の良い日に朝から作業服を着て、墓場にはいつくばりながら全ての墓石から戒名を書きとる。没年がわかればよいが、わからないときはそれでよい。戒名すら書きとれないほど石が崩れていても、わかる部分だけ書き取り、あとは?とする。そうやって全部を書きとった。あとは改葬許可申請書にすべて転記し、市役所に持ち込んだ。市役所に行くと禿げたおっさんが担当らしく、私が持参した束になった改葬許可申請書を見て少し仰天している。とにかくやってもらうしかない。申請してから数週間経過しただろうか。許可が出たとの電話があり、行くとくだんのおっさんが「許可証です。」渡してくれたので思わず「やった」と歓喜した。

 案件が済んでからかなり経った頃、墓地が気になって仕事の帰りに寄ってみることにした。また独立当時の事務所ビルの前を通り、マンションの裏手に回ると墓地はすっかり壊されてビルになっていた。人はこうやって生きていた痕跡が忘れ去られるのであろうと妙な心境になりながら墓地跡を見つめるのであった。