私の会社にかつて頻繁に出入りしていたヤクザ風流れ者系不動産ブローカーのAさんから「こんど会社を設立したい。手伝ってくれ。」との依頼が入る。何の会社なのか、何に使うのか尋ねるが全く答えてくれない。何かの物件の受け皿に使用するようだ。もしかして脱税だろうか。悪に加担するのは気が引けるが、会社設立事務を代行するだけなので罪にはならないだろう。もしかしてまた自宅へ東京国税局がやってこないとも限らないが、それはそれで面白いものである。来たらヘラヘラ笑ってなけなしの貯金通帳を見せながら「私はお金には興味がないので。洋服を買うのも嫌いだし、毛が生えているから服がいらない犬がうらやましい。」そんな事を言いながら汚い作業服で床に転がっていようと思う。
Aさんによると、手下が西川口に住んでおり、彼から必要な資料をもらうよう指示された。スパイ大作戦ではないが、代理人を使う所は用意周到である。
電車で西川口まで行き、降りる。駅前からぶらぶら歩くが、何となく目つきの鋭い男達が昼日中から多い気がする。中にはニッカズボンに半纏の人足風の男もおり、剣呑な空気があたりを支配している。人足達のケンカに巻き込まれないよう注意しながら小汚いマンションに到着した。錆び付いた玄関扉が開くと饐えた匂いが中から流れ出し、鼻を突く。薬中なのかトロン目の遊び人風の男から書類封筒を受取り、報酬が入っているらしい某銀行の封筒も頂く。中を確認してから領収書を渡し、書類封筒を鞄に入れてから退去した。ドラマのように書類封筒が白い煙を出して消えないとは思うが、西川口駅に着いてから改めて中を確認するが、大丈夫のようだ。
さて、今度は川口駅に戻り、公証役場である。書類を提出してハンコをもらい、その後法務局で申請すればこの仕事は完了となる。法務局は川口駅からかなりあるのだが、歩くのが好きなのでバスを使用しないでひたすら歩いた。そういえば昔の映画で吉永小百合のキューポラのある町という映画があった。このキューポラは鉄を作る小型の溶鉱炉のようなものらしい。昔は川口の川砂が鋳物の型に最適という利点を生かして鋳物工場が林立し、職人も工場主もその羽振りの良さは筆舌に尽くしがい程であったという。腹巻きに札束を何束も挟み込み、女の居るような飲み屋をはしごして紙幣を雪の如く降らせ、豪遊する者も多かったようだ。そんな伝統が残っているのか、この町は何となく煤けた感じがしており、雰囲気も荒々しく、ケバい飲み屋も多くある。
荒物屋があるので中を覗くと、さすが川口、鉄瓶がたくさんある。しかしかなり良い値段だ。「一番安いのは。」聞くと、店主はまるでおもちゃのような小さな鉄瓶を持ち出してきた。お湯の量はせいぜい50ccくらいか。使うというより飾って楽しむ装飾と割り切り、購入した。その後この鉄瓶は机の上で文鎮として使用している。
法務局では簡単に審査が行われ、その後OKが出たので長居は無用と帰り始める。さすがに疲れたので川口駅行きのバスに乗り、楽々と駅に到着した。暗く、ぼんやりとした曇天は駅前を陰湿な印象に変えており、さいたま新都市のような華やかさが微塵もない。どんなに綺麗なショッピングモールや文化センターを作っても、鋳物の町という伝統はなかなか町の気配を明るくはしてくれないようだ。
駅前の陸橋でしばらく風景を眺めていたが、ここで喫茶店に入ると鉄臭いコーヒーが出てくるような気がしてきた。電車に乗り上野まで出ることにした。車窓から見える荒川を見ながら、かつて豊かな富をもたらしてくれた川砂がいまだに川口の街に重くのしかかっている現実に暗然とした。電車とはいえ、川を渡りきった瞬間ホットする自分になにやら釈然としない思いを抱きながら、もうこの町には二度と来ることがないような気がしたのである。