壁紙やクッションフロアを製造する会社に居た時分だが、所属は本社経理部なのに時々現場の工場回りをさせられた。いくら本社勤務の事務屋でも製造現場を知らないで仕事をすることは木を見て森を見ない欠陥人間を生み出すと考えた経営者の達見であろう。ある日業務命令を受けて会社の薄汚いトヨタバンを引っ張りだし、埼玉の工場に向かった。
青空が広がる開放感あふれる工場団地に車を乗り入れると道の両側に綺麗な工場が延々と続いている。ここは埼玉県の肝いりで開発された場所で、新興の工場がかなり誘致されているようだ。しばらくノロノロ運転していると我が社の会社名が彫られた銘板が見えてきた。JIS認定とか書かれている。車を中に乗り入れ、駐車場に停める。
かなり巨大な工場で、見上げるような棟内では数ラインが稼働し、24時間三交代制で休みなく壁紙の生産が行われている。IDカードを提示して工場内に足を踏み入れると壁紙を印刷する輪転機の轟音が耳を刺す。それと同時にムンとした熱気が体全体を覆うのがわかる。黄色のビジター用ヘルをかぶり、機械に巻き込まれないよう安全地帯を示す床の白ラインに注意しながら第一ラインまでぶらぶら歩いた。製造ライン最上流では壁紙の原料となるロール紙が機械の中に気持ちよく吸い込まれていく。それを辿るとやがて紙に模様を印刷する印刷ロールが出てきた。こいつは円筒状に巻かれた薄い金属薄板に細かい模様の穴が穿孔されたもので、ローラーの中心部にインクを投入するとそのインクが金属薄板の穴のあいた部分から浸みだし、紙に模様が印刷される仕組みだ。この浸み出すインクが熱発泡インクなるもので、熱を加えると膨張する。
やがて印刷後の行程に進むとそこには連続加熱炉があった。壁紙に熱を加えて熱発泡インクを膨張させることでボツボツ模様(エンボス)を作るのである。この炉の点検窓を何とは無しにのぞき込む。ややゆっくりした速度で紙が送り込まれ、赤く熱した電熱線のようなもので紙があぶられている。そのときふいに変な想像が膨らむ。もしこのラインに私の服が引っかかって吸い込まれたら、この連続炉でジワジワあぶられながら死ぬんだろうな。そんな事を考えるとぞっとした。それでも飽きもせずに小窓から熟柿のような赤い熱源を凝視していた。温度が強ければ紙が焼け切れるし、弱ければインクは十分に発泡しない。その絶妙の温度勾配で管理された製造工程に工員の職人業を見た気がした。
数ラインを見て回るが、あるラインだけが停止していた。どうも壁紙の品目変えで印刷ロールの交換作業中らしい。印刷工程の部分に来るとそこでは入社式で見かけた同期の男が作業していた。彼は床に這いつくばり、印刷ロールやインク受け皿のようなものをシンナーで洗浄している。手も体もインクだらけで、顔も様々な色のインクがちりばめられ、まるで歌舞伎役者のようである。印刷機械はインクの洗浄が不十分だと次の印刷行程で残存インクが新しいものと混ざり、色が変化する。そのためにも洗浄は重要な仕事だ。それでも同じ日に入社した仲間なのに、私は白いワイシャツを着て涼しい顔でデスクワークしているのに、彼は灼熱の工場内でシンナーに溺れて作業している。そんな姿を見るに付け、とても声を掛ける気がしなかった。私は静かにその場を離れ、駐車場の車に向かった。
