上野でサラリーマンをしていた頃だろうか。あまり記憶が定かではないが、都内でもいわゆる一流のサラリーマンが集うような町ではなかった。道にはゴミが広がり、怪しげな風俗店が軒を連ね、昼間から一杯引っかけた正体不明の男が回りの人々に怒鳴り声を浴びせながら歩くような、そんな不穏な気配が渦巻く場所であった。体中に防寒用の新聞紙を貼り付け、どこからもらってきたのか小さな鯖の缶詰をつつきながらうつろな目付きで呆然とするガード下の浮浪者を横目に見ながら、自分もいつかこんな姿になるのだろうかと、とても人ごととは思えないネガティブな感情と戦う自分がいた。
ふと路地を見ると汚い店が両側に並び、その多くがスナックの類いである。昼すぎであるからほとんどの店が火を落とし、何となく薄暗い気配を漂わせている。サンダルを引っかけた異常に痩せた売春婦風の女が急ぎ足で私の横を通り過ぎる。鼻をくすぐる独特の香りは大麻だろうか。しばらく歩くと大きく「ラーメン」と書かれた赤いのぼりの店がある。外から見る限りラーメン屋にはとても見えないが、空腹ゆえに書かれている内容にうそはないだろうと勝手に思い込む。しかし、店の外にあるはずのサンプルがなく、値段表も見当たらない。変だというカンが働いているが、それより何か食いたいという感情が勝ち、思い切って扉を横に引いた。
カウンターだけの10席程度の店だが、なんと狭い客席にウェイター役の大男が2人も居て「ヘイ。いらっしゃい」言うが、その腕は太く、顔つきもヤクザ風である。全体に威圧感があり、少しでも減らず口をたたけば首を捕まれてどこかへ連れて行かれそうな雰囲気である。入った正面に値段表があり、一番上の醤油ラーメンが1200円、次の味噌ラーメンが1450円、下に行くに連れて値段が急上昇している。一瞬戻ろうかと逡巡したが、男は私の腕を掴むと無理矢理カウンターに座らせた。この時私は「ぼったくりラーメン」にはまったことに気づく。ちょうど蟻地獄に落ちた蟻の如くまんまと捕まったのである。
仕方なく「醤油ラーメン」注文し、しばらく待つとすぐに出てきたが、普通のラーメンで、特に他と変わる点はない。駅で食えば300円くらいの代物か。店内はBGMもなく、客は誰もが萎縮したようにうなだれ、ラーメンをすすっている。私も同じようにすするが旨いものではない。その後次々と客が来るが、皆同じように戻ろうとするところをウェイターの大男に捕まり、カウンターに押し戻されている。彼らはこのための要員であった。結局金を払い、店を早々にでた。扉を閉めてから店の位置を改めて確認した。間違って2度と来ないためである。
しかしこんな商売が成り立つのであろうか。1度来た客は2度と来ない。リピーターの無い店に将来性は無いのでは。それでも彼らはそれを承知でやっているのかもしれない。しばらく開業して、獲物が捕れなくなると他の町に移動する。そうやって日本中を巡回しているのかしれない。この手の商売であるから地元のヤクザにはそれなりの上納金を支払い、仁義は尽くしているのだろう。それでもいつか人生を捨てたような男が店に入り、ラーメンを食べた後、ヤッパ(刃物)を振り回して彼らの人生が終わる時が来るのかもしれない。
立場が低い人からだまし取る人々を見てしまった私は木枯らしの吹くすさんだ飲み屋街を後にし、身も心も冷え切った状態に辟易としながら仕事場へと急いだ。

