新橋駅ガード下のタンメン

職業放浪記

 会社の電話が激しく鳴った。課長さんが取ると「はい。わかりました。納期は3日後ですね。」そんな会話をしている。切ってからおもむろに「千葉のコンビナートに建設するフレアスタック(集合煙突)の構造計算が入った。通常だと1週間かかる仕事だが、3日で終わらせる。」そんな恐ろしい事を言い始めた。

 すぐに図面を取り寄せ、計算を開始した。私はまだ駆け出しなので、計算はさせてもらえない。あくまでサポート役である。その時課長さんが行っていた構造計算手法は固定モーメント法と呼ばれるもので、詳しくはわからないが、細かい数字がたくさん羅列してあり、それが何行も続く不思議なものであった。A4の紙に実に細かく数字を書き込み、出来上がると私がコピーを取り、電卓で再計算してミスがないか確認した。作業は延々と続き、夕方6時を過ぎても終わらない。ようやく7時頃になると「夕食取るか。」課長さんが言うので、私は電話で近所のそば屋に出前をお願いした。ソバが届くと、課員全員は手を休める事無く、ソバをすすりながら計算作業をしている。そのまま実に激しい勤務が夜10時まで続いた。「このままだと終電が無くなるのでは。」私は心配になり、窓の外を眺めながら少しボーとしていると課長さんが「君はそろそろ帰りなさい。」そう言うので、何となく後ろ髪を引かれる思いをしながら、午後10時30分で帰ることにした。

 暗い夜道をとぼとぼ新橋駅まで歩き、だるく重い足をひきながらガード下のラーメン店に入る。「タンメンください。」注文してすすっていると、上をゴーと轟音を立てながら電車が通過する。そういえば課長さんは50才をとうに過ぎているのに未だ独身である。きつく多忙な毎日を送り、気づいたらそんな年齢になっていたのだという。このままだと自分もそうなりかねない。タンメンを食いながら、この仕事を続けるべきかどうか、少し逡巡していた。

 翌日、やや早めに会社に着くと、もう課長さんは机にへばりついて仕事をしていた。私の机には計算式を書いた紙がうずたかく積み上がっている。私の事をチラリと見たその目は赤かった。どうも徹夜をしたようだ。「その計算式、再確認して。」私は慌てて机に駆け寄り、紙を抱えて電卓を打ち始めた。その日も午後10時30分に退社できた。同じように私だけ抜け出て、新橋駅でタンメンを食った。

 翌朝また早めに出社すると、やはり前の日と同じように課長さんは机に顔を埋めて計算し続けている。徹夜3日目に突入である。近寄るとホームレスと同じ匂いがする。「図面が出来たので焼いてきて。」私はトレーシングペーパー鉛筆書きの図面に感光紙を巻き付け、青焼き用の機械に流し込んだ。チカチカ光り、薬品の独特の臭さが漂う。完成すると課長さんのところに持参した。青焼き用の薬品臭でホームレス臭はかなり軽減された。その日も夜10時過ぎまで働き、新橋までぶらぶら歩く。やはりガード下のラーメン店に入り、タンメンを注文した。昨日と同じように天井から轟音が響き、野菜のシャキシャキ感をかみしめながら空いた店内で呆然としていた。

 翌日、朝8時頃会社に行くと課長さんは机の上に寝そべって爆睡していた。納期はどうやら間に合ったようだ。しかしその顔はひどい髭面で、過労のためか痩せこけ、もはや老人の気配を漂わせている。ホームレス臭はさらにひどく、もはや我慢の限界を超えている。9時頃になってやっと起き出し、「さて、1週間ぶりに家に帰るか。」そんな事を言い出した。「そんなに帰っていないのですか。」聞くと「別に誰かが待っているわけではなし。ただ食って寝てまた会社に戻るだけだからね。とりあえず風呂に入るか。」課長さんはよぼよぼと歩き出し、帰宅した。

 この課長さんは毎日毎日徹夜で働いて、それでも空しくならないのだろうか。そんな虚無感を私は感じながら、彼にどんな人生目標があるのか少し考えてしまった。働きながら夜学で1級建築士の資格を取り、とにかく若い頃から夜昼働いていたようだ。もしかして、働き続けることで人生の無意味さを感じないように自分をごまかしてきた人生なのかもしれない。いつか過労で倒れ、それまでの歩みを振り返る時、どんな考えが去来するか。骨折って働くそのすべての骨折りに何なんの益があろうかと考えるのか。そこの所は興味があったがとうとう退社まで聞くことは出来なかった。私は今でもタンメンを食べると課長さんと厳しい残業の事を思い出すのである。それ以来タンメン、ラーメンの類いをほとんど食べることはなくなった。