課長さんの数学

職業放浪記 職業放浪記

 造船会社でサラリーマンをしていた時期があった。もっとも当時は造船不況で造る船がなく、仕方なしに橋梁や高圧鉄塔の設計、海底トンネルを掘るモグラの先端切歯の設計等していた。学生時代によく数学の先生から「今はこんな方程式とか勉強しているが、将来仕事で使う機会は無いと思う。こいつは頭の訓練だと思え。」そういわれてきた。しかし、私の直属の上司である課長さんはかなりの変数の多い偏微分方程式を解いている。たまに手計算ができないとPCでプログラムを組む事もあった。他にもルンゲクッタ法とか高速フーリエ変換とか意味不明の技術を駆使して仕事をしている。数学の先生の助言は何だったのであろうか。どうも私は常識が通じない世界に迷い込んだようだ。課長さんは私に向かって「高等数学ができないと仕事にならない。」と申す始末。しかたなしに私は書店に行き、スミルノフの高等数学教程とかいう本をシリーズでそろえて読む羽目になった。しかしこれも難しい。わからない箇所にぶつかると課長さんに聴き、何とか読み進めた。

 課長さんは不思議な人である。朝出勤すると挨拶も何にもしないでうつむいた姿勢のままゆらゆらと歩き、そのまま席にドカンと着く。その瞬間から帰宅までずっと同じ姿勢で仕事をする。頭は髪がぼさぼさ。牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけ、かなりの肥満体で無口。しかし、たびたび私は呼び出されて的確な指示を受けた。ミスは許されない。ごまかしもすぐに見破られる。天才ではないかと思った。誰かに聞くと課長さんは京都大学の理論物理を出ているのだそうだ。なんでも湯川秀樹が出た学部だったそうで。そうだろうなと思った。ある日偏微分方程式の図解を見ていてベクトル解析のややこしい部分が理解できたと思った。うれしくて課長さんに報告に行くと「理解が違う。」とすげない。私はまだ修行がたりないようだ。

 そうこうするうちに私は瀬戸大橋の構造計算部門に回ることになった。しばし課長さんとはお別れである。その部門に行くと壁にはでかく橋の図面が貼られ、ビックプロジェクトの意気込みが感じられた。構造計算は重要である。部材に負荷が加わるときにどの方向にどのくらい曲がるかを正確に計算する。その結果をもとに最適の鉄骨部材の形状や大きさを算定する。間違うと建設物が崩壊するので責任は重大である。課長さんの下にいたときは固定モーメント法で手計算だったが、構造物が3Dでややこしいため使えない。そのため有限要素法という特殊な理論で計算した。方法は意外と簡単で、部材の行列と負荷の行列を使い、変異の行列を解くのである。行列自体は手計算が不可能なので大型計算機を使用した。プロジェクトが終盤になり、多忙な時期を過ぎると私は元の課長さんのもとに帰された。課長さんの所に行くと相変わらず頭をぼりぼり搔きながら何やら計算している。見ると「自然科学者のための数学概論」と書かれた本を参考にしている。私に気づくと「この本は良い。読者対象が数学者ではなく工学者なのでわかりやすい。」と絶賛していた。

 その後この会社を退社して何年もしてからこの本の事を思い出し、書店で購入してしまったのだが、固い内容でやはり理解できなかった。現在は行政書士として事務所を構えているが、書棚には今も一番目立つ位置にこの本がある。見るたびに私は本当に頭の悪い馬鹿な男だと心底思う。なぜならいまだにこの本に歯が立たないからである。