脳神経科学の本によると有能な人間と無能な人間には1億倍以上の能力差があるという。そして悲しい事に無能な人は自分の無能さに決して気づくことはなく、逆に有能な人は自分の至らなさを嘆きながら勉強や仕事のスキルアップに励むため両者の差はますます広がっていく。ビル管理会社にいた頃、無能を絵にかいたよう課長さんがいた。何となくトロントした目をしており、何をするのも遅いナマケモノのような不思議な人物であった。しゃべり方も遅く、いつも何を考えているのかわからない無能な管理職であった。
ところでこの課長さんの車の運転は下手の極致である。ブレーキはガックンと踏むし、進路変更も下手くそ。回りを全く見ない。隣に車が居ても強引に進路変更するし、右折専用レーンで平気で直進する。都内で同乗していると怖くていつも足を踏ん張っていた。当然回りの車からは終始クラクションを浴びせられ続けることになる。
課長さんはただ車の運転が下手なだけではなかった。仕事の判断力というか、認識力の全てが普通人以下で、指示を受けるこちらはいつも大変な思いをしていた。とにかく常識では考えられないような事を平気でするし部下に指示もする。時々この人は頭がおかしいのではと考えてしまう。
ある日、管理しているビルの地下室で水が床に溢れる事件があった。駆けつけて床のタンク点検口の鉄製板を持ち上げ、フラッシュライトで中を覗くと排水が上手くいかないのか通常より地下タンクの水位が高い。しかも時間の経過とともに水位がドンドン上昇しているようだ。このままでは地下室が水没してしまう。私はすぐさま課長さんに「今すぐ水中ポンプを用意しましょう。排水量は1分間○リットル。」そう言うと課長さんは「いやあ大丈夫だよ。そんなものはいらない。掃除機で吸おう。」私は一瞬あっけにとられた。地下タンクにある膨大な量の水を掃除機で吸い上げるなんてとても考えられなかった。
それでも課長さんは本当に掃除機を持ち出してきた。そしてそのパイプ先端を地下タンクに差し込んだ。ゴーという音がしたかと思うとすぐに掃除機は停止する。タンクが水で一杯になったのだ。いくら業務用の泥水も吸える高性能掃除機ではあるが、所詮吸える量はせいぜい20リットル程度か。すると課長さんは掃除機の蓋を外し、タンクを見る。当然中は水で一杯だ。「渡邊君。これ上に運んで道路に撒いてきてよ。」私は仕方なく、水が満タンのタンクを抱えてヨロヨロ階段を上り、外の道路にまき散らした。そして下に降り、また水を吸うとわずか十秒ほどでタンクが満タンとなる。またそれを持ってまた上に上がる。約数時間そんな作業が続いただろうか。疲労困憊した私は何十回目かでとうとう水満タンの掃除機タンクを階段でぶちまけてしまう。仕方なく、雑巾を持ち出して掃除するしかなかった。「こんな馬鹿な事をいつまでするのだろう。」私は空のタンクを持ちながら恨めしそうに課長さんを睨んだ。すると課長さんは「もう5時過ぎたから渡邊くん帰っていいよ。」私はすぐに着替えて逃げるようにして帰宅した。
さて、翌日、地下室がどうなっているか心配になり、早めにビルに来てみると同僚のベテラン作業員のおっさんが水中ポンプを操作しているではないか。ホースからは水がドボドボと快調に排水されている。私は喜びのあまり「どうしたんですか。」聞くとおっさんは「地下タンクに水が溢れているんだ。これしかないだろう。おまえ何やってんだ!。掃除機で何百トンもの水を上げられるとでも思っているのか。馬鹿か。またあの課長に指示されたか。あいつはどうしようもない豚野郎だ。」そんな事を言っている。課長さんはベテランの部下にもあしざまに言われ、罵倒にされていた。
事の詳細をおっさんに聞くとこうである。課長さんは私が帰宅したあと、本当に自分一人で掃除機を持ち、何百回と階段を往復して水を排水していたそうだ。そして夜中にとうとう疲労困憊でへばってしまったようだ。無能でも責任感だけはあるみたいだ。
早朝、作業員のおっさんが出勤すると階段に意識朦朧とした課長さんが倒れており、おっさんはすぐさま彼を助け出して救急車を呼んだ。その後、会社の倉庫から強力な水中ポンプとホースを持ち出し、排水作業に取りかかったそうだ。どうも課長さんは水中ポンプの存在自体を知らなかったようだ。何ともはやこんな課長さんだからこれからも何をしてくれるか、何となく私としては楽しみではあった。
