英領香港

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 ソウルの金浦空港を飛び立った飛行機は信じられないような急角度で大空に向かって上昇し始めた。体感角度は35度以上あるかもしれない。最後部の席に陣取った私は前方席の方からビール缶がこちらに向かって飛んで来るのを見て素早くよけた。客室乗務員が何やら大声で叫んでいるがこの状態ではCAも何もできないであろう。今でこそ旅客機といえばボーイングやエアバスで快適な空の旅を楽しめるが、この時私が乗り込んだのはロッキード社のトライスターという変な機体であった。何しろ戦闘機の会社が作る飛行機なので発射もまるで領空侵犯の国籍不明機を追いかけるような急加速急上昇である。しかもエンジンが機体の後ろに設置されているため騒音がひどい。隣の席の方との会話すら全くできない。相当の大声を上げないと会話が成り立たないのであるが、疲れるので皆静かにするほかはなかった。

 香港に近くなると窓の外に海と点在する島がポツポツ見えてくる。次第に高度が下がり、前方にエノキダケのように高層ビルが林立する香港が見えてきた。着陸滑走路はどこだろう目で追うが、そのおびただしい数の高層ビルの間に挟まれた小さな湾の中にまるで取り残されたような細長い砂州のような飛行場が見える。「空母だな。」思わずつぶやく。戦闘機みたいな旅客機としてはランディングにふさわしい場所といえる。海がドンドン迫り、窓から高層ビルの窓が見える。何度か香港に来ている方に事前に聞いたところ窓から飯を食っている家族が見えたと喧伝していたが、それほど近接しているとは思えない。不意にドンと衝撃が走り、無事に着艦ならぬ着陸を果たした。

 早速英領香港を歩き回るが、あふれかえる漢字の看板や見上げる高層ビルの風景は素晴らしく、町に流れる中華の香りや今まで嗅いだことの無い変な臭い(多分八角)が充満し、異国情調が漂っている。とにかく路線バスからゴミ箱に至るまで見る物全てが新鮮で衝撃であった。生涯でこれほど面白く、熱気があり、心揺さぶられる町には出会った事が無かった。私は心弾ませながら朝から晩まで香港を歩き回った。

 友人から「夜になったらビクトリアピークにいかないか?」聞かれて私はすぐに映画「慕情」を思い出した。自分がウィリアム・ホールデンになった気分になるのも良いかと考え、行くことにした。ぶらぶら歩いて港まで行き、スターフェリーに乗り込む。この船は現地人が使う庶民船なので料金が安い。対岸の香港島に着くとバスに乗り込み山の頂上を目指した。

 すっかり日が暮れるのを待ち、展望台から香港の町を見下ろすとそこには鮮やかな煌めくビル群の宝石箱が無造作に並んでいた。なるほどと思うがそんなものかと言った印象で、それより何か食いたいとレストランに入り食事をした。満腹になったので下山し、またスターフェリーで帰ることにした。

 行きは船内でうとうとしていたが帰りは混んでいたのでデッキに立ち、外を眺めていた。船がちょうど九龍半島と香港島の中間あたりに来た時である。私は光きらめく無数の蛍に囲まれたような衝撃を受けた。私の回り全てが光のツブで囲まれていたのである。空には星、高層ビルの窓から漏れる光、海には街の光の乱反射、つまり360度全てが輝く光であふれていた。これは凄かった。何時間見ていても飽きない感動の夜景に涙がこぼれた。来て良かったと心底思った。また絶対いつか来ようと心に決めたのだが、結局数十年の時を経て香港を再訪したときはもう英領香港ではなく、中国領香港になっていたのである。