乗り鉄仲間のAから旅の誘いがあった。旅のプランはこうだ。まず中央線で甲府まで行き、そこから身延線で南に下る。富士駅からは東海道線に乗り換え、東京駅に戻るという逆コの字型の一筆書きプランであった。面白そうなのでこの計画に乗ることにした。(鉄道だけに)
今回は早朝に出発し、その日のうちに帰る日帰りとした。Aとは新宿駅で落ち合い、まずは甲府に向かう。中央本線は相変わらず山ばかりの単調な路線風景で、高いような低いような、どちらかというと中高年向きの日帰り低山が垣間見える。私は山登りもするのだが、今回は鉄ちゃんであるから登山は無い。
甲府では名物のホウトウを食べ、身延線に乗りかえる。鉄路はやがて甲府盆地を抜け出し、深い山に突入した。富士川に沿って進むかと思いきや、山に入り、また富士川に沿って走る。まことに奇妙な動きである。途中、身延という駅でいったん下車することになった。なぜならAが「ロープウェイに乗りたい。」と突然言い出したのである。私としてはあまり気乗りがしない。なぜなら有名な寺がここにはあるからだ。何か起こるかもしれない。そんな不穏な気配をひしひしと感じながら駅に降り立った。
駅は富士川の左岸にあり、駅前広場からはおどろおどろしい山塊が黒い森を抱えて屹立しているのが遠望できる。Aは「まずはバスでロープウェイ乗り場まで行こう。」そういうので向かうことにする。人がやたら多く、しかも老人が多い気がする。かなり混雑したバスに揺られること15分。身延山ロープウェイの駅に着いた。ガクンとした振動でケージは動き出し、山をグングン登り始める。半分を過ぎたころだろうか。快晴だったのがいきなり吹雪となり、強風でケージが左右に揺れだした。その変化の急激さに唖然となる。乗客たちも騒いでいる。「どうしたんだ。急に。」低山とはいえ山の天候は急変するものだ。
頂上駅から少し歩くと長大な階段が見えてきた。私たちは寒さに震えながらその階段を登りだした、その時である。奇妙な気配を感じた。ふと後ろを振り向くとほうきで清掃している寺男、御堂付近にいる僧職者が私のことをじっと睨んでいる気がする。その目はうつろで焦点が合っていない。それでいて鋭い眼光を発しながら顔だけは私の方へ向けている不思議な気配である。まずいと感じたが無神経のAは構わず階段を登っていく。私は逃げるようにAのあとを追いかけ、しばらくして後ろを振り返るとやはり僧職者は首だけで私を追跡していた。「もう帰ろう。」Aにそう告げると「そうだな。疲れたな。」私たちは逃げるような駆け足で下山をした。そして何とか身延駅までたどり着き、旅を再開した。
富士駅からは東海道線に乗り替え、あとはひたすら東京駅を目指す。夕闇が次第に近づいていた。疲労困憊のあまり寝ていたら、Aが「海だ!。降りよう。」いきなり言い出した。仕方なく国府津駅で降りる。駅を降りると大きな国道があり、そこを渡ればすぐ海岸である。Aはよほどうれしかったのか波打ち際に行っては走り、砂浜で暴れ回っている。次第に暗さを増し行く海岸で私はただ茫然とAの姿を眺めていた。そして暮れなずむ国府津の海岸で星が見えるまで佇んでいた。
その翌日、私は40度近い高熱で寝込んだ。「当たったな。」そんな事をおぼろげに考えながら、やはり身延山には行くべきではなかったと後悔するのであった。
それからかなりの年月が流れ、私は仕事で沖縄の那覇に居た。まだ2月だというのに33度近い高温、行き交う人々は半そで短パン手にはサーフボードを持ち、すっかりリゾート気分である。昼飯でも食おうと那覇市内の沖縄そば屋に行くと、人気店なのか多くの人々が並んでいる。店員から待合室でしばらく待つよう言われた。私は灼熱の表通りをガラス越しに眺めながら自分の番が来るのを待っていた。
その時である。知人からLINEが届いた。「今朝、Aが死んだ。」私はあの身延山の時のように全身に寒気が走った。待合室から見える南国の風景がまるで吹雪に煙るあの時の身延山に見えたのである。寒気はその日一日止まらなかった。沖縄で寒い思いをしたのは後にも先にもこの時だけである。