福井県に東尋坊(トウジンボウ)という海にそそり立つ断崖絶壁がある。自殺の名所としても全国に良く(悪い意味で)名が知られた場所である。ある日、急にそこに行きたくなった。なぜなのか理由はわからない。これは後で判明する。
すぐに北陸新幹線の切符を取り、あわら温泉の旅館に予約を入れた。
数日後、友人に「来週、東尋坊に行ってくるよ。」そういうと、彼は「東尋坊!。まさか自殺しに行くんじゃないだろうね。そういえばAがマンションの屋上から飛び降りて自殺したらしいよ。」初耳だった。なんてこった、旅行前のこんな時期に嫌なことを聞いたものだ。「いつのこと。」聞くと彼は「先週の〇曜日」。私が東尋坊に行きたくなったころだ。虫の知らせだろうか、それとも単なる偶然か。背筋に冷たいものが一瞬走る。私は暗い気持ちで北陸に向かうことになった。
しかし、着いた東尋坊は明るい陽光の中に燦然と輝いていた。まるで油を引いたような静かな海はただただ美しかった。Aとは中学生の頃からの知り合いである。もともと精神の病気を患っていた。息子の成績が悪くて困っている、そんな電話が来て、それならと私が経営する塾に入れたりもした。
ある日の夕方突然電話があり、すぐ家に来てほしいという。何事かと駆け付けると、「ぴったりの女性がいる。会ってほしい。」そんな事を言い出した。
仕方なく息子さんとトランプをしながら待つがなかなかやってこない。では夕食にしましょう。そういって皆で食事をするがそれでも来なかった。食事の後、コーヒーを飲んで待つがそれでも来ない。Aが何やら電話をしている。戻ると申し訳なさそうに「まだ結婚とか考えていないそうです。」。私は「気にしなくていいですよ。私は来るものは拒まず、去る者は追わない主義ですので。」
そんなエピソードが思い出される。
さて、せっかくここまで来たのだから東尋坊の絶壁を体験しようと思い立つ。私は蛇のように這いながらソロソロと断崖を進んでみた。そうして崖の端まで来ると恐る恐る下を覗いた。目のくらむような断崖の下に青い海が見える。そういえばAはこのくらいの高さから飛び降りたんだよな。よく怖くなかったものだ。変なところに感心する。
私はAとはまたどこかで会える気がしている。その時はもう精神の病気も癒え、元気な姿で私の前に現れるはずである。その時はこう言おう「お帰りなさい。」。