工場のスチーム風呂

職業放浪記 職業放浪記

 若い頃、しけた感じの風呂無し月1万5千円のボロアパートに住み着き、歩いて5分の工場まで通っていたことがある。汚い作業服を纏い、安全靴という先の方に鉄板が入った靴を履いてブラブラ歩く様子はまさに落ちぶれた工員か浮浪者であった。朝は適当に青カビが生えたパンを食い、生ぬるい牛乳を飲んで始業の8:00に間に合うように家を7:50分には出た。あまり将来の希望もなく、と言って他にすることも無く、週末になると近所のステーキハウスで週に一度の贅沢を楽しむ自堕落な生活であった。同僚の工員は皆家族持ちで、話と言えば家族や親せきの話ばかり。そういえば社内の話もそんな類ばかりであったと思い返す。

 社長が現れたので「何で社内は親戚の話が多いのですか。」と聞けば「社員はほとんど親戚同士です。」という驚くべき答えが返ってきた。何でも経営者を含めてすべて同族なのだとか。会社を興す時に社員を親戚から呼んだので、社内がほぼ親戚同士になったようだ。私は本当に珍しいよそ者外部入社だったらしい。そうなると社長役員を始め課長も係長も親戚同士ということになるので私が出世するためには社内にいる娘と結婚して親戚になるしか方法はない。課長さんに聞くと「ここは山形出身者で占めてんだ。」とか無粋な方言でしゃべり、見回すといかにも山だし田舎丸出しの娘ばかりが事務をしており、こんな娘と結ばれるのは嫌だなと感じつつどうしようもない現実にただただおろおろするばかりであった。

 そんな時期に課長さんから「お前のアパートに風呂はあっぺか。」と聞くので「ありません。」と答える。「なら毎日夕方になったら工場の風呂にはいれ。」課長さんに連れられて見に行くとかなり広い風呂で一度に20人は入れそうである。課長さんは「このレバーを絞れば湯がでる。」というのでレバーを回すと激しい勢いでお湯がでる。なんでも工場の稼働用ボイラーの蒸気をパイプでここに引き込み、混合器で水と混ぜることで一瞬のうちにお湯を作っているのだとか。生まれて初めて見る仕組みにただ驚くばかり。レバーの回し加減で湯の量と熱さが変化する。「操作には熟練がいるだべ。」とか課長さんは言うが、慣れると簡単そうだ。それ以降私は仕事が終わるたびにこの風呂に入り、ボロアパートに帰る生活になった。ある日、同じアパートに住む友人が「風呂に行く。」というので「なら俺の工場の風呂に来れば。」と誘った。彼は「社員じゃねーからな。」というが「社員はたくさんいるのでわからない。」と押し切り、彼と風呂に行った。その後もたびたび彼と工場のスチーム風呂にいったが一度もバレル事はなかった。しかしその後彼は大胆になり、とうとう私が居ない時も入りに行ったようで、果たしてその後どうなったかわからない。

 ある日、いつも通りにスチーム風呂に行くと知らないおっさんがおり、私の事をジロリと睨む。私は感じ悪い奴だなと思いながら体を流してから湯にはいるといきなり「前を流してから湯に入るのがマナーだろ。」と言い出す。「流しましたよ。」というが聞き入れない。どうも変わり者の工員のようだ。私がレバーを回すと「それじゃ熱い。」とか言い出す。私は何となくスチーム風呂にケチが付いたなと考えた。こうなるとこの風呂とも縁が切れる。私はさして洗うこともしないで風呂を出てしまった。それ以降このスチーム風呂には行っていない。近くの銭湯に行くようになったのである。友人にも2度とあの風呂にはいくなと厳命した。