足立区のボロアパートにひとり暮らしをしていた時分なのでかなり前の話である。私の部屋の斜め前に住んでいたとび職のAさんとひょんなことから知り合いになり、その後度々彼の部屋で食事をする仲となった。その彼が勤めている会社の先輩に超人がいるという。Aさんの仕事は正確には建物の解体工事である。主に木造の家を解体する作業をしており、蟹の化け物みたいな重機も使うのであるが、通常コンクリ建造物の解体でもない限りほとんどが手作業であるという。最初に家の中に入り、壁や天井を丁寧に壊していく。その後屋根に登り、瓦を剥がし、骨組みだけになってから柱や梁を壊していく。都内密集地など道が狭くて重機が入れなければ柱や梁にロープを掛け、下から人力で引き倒すらしい。夏は滝のような汗が流れ、朝8:00から日暮れまで作業すると体がくたくたになるようだ。それはそうであろう。
その解体会社の先輩がBさんである。年の頃は40才くらい、とにかくすさまじいばかりの腕力と脚力で解体作業の現場を取り仕切っているそうだ。誰よりも早く現場に到着し、段取りをし、危険な屋根にも誰よりも早く登り率先して作業する。そんなBさんのことをAさんは羨望と敬意を込めて慕っている。一緒にロープを持ち、ソーレと引っ張るときの力の入れ具合はいつもBさんの方が大きく、汗も人一倍流していた。
ある日、AさんはBさんに「いつもありがとうございます。今日仕事が終わったら一杯飲みに行きませんか。全部私におごらせてください。」そう告げると驚くべき答えが待っていた「俺、この現場終わると仕事だから。」何とBさんは解体工事現場が終わると家の近くの中華料理店の厨房で働いているのだという。ラーメンやチャーハンがメインのありふれた町中華であるが、Bさんの腕はかなり良いらしく、ファンが押しかけているそうだ。そのため毎日、厨房で重い中華鍋を振り回し、激しい炎を上げながら汗だくで調理しているらしい。Bさんは「仕事はきついよ。中華は火が強いからね。冬でも汗だくだよ。汗で足下がビショビショになる。だからいつもゲタ履いて仕事しているよ。」そんな中華屋の仕事が午前1:00まで続く。その後、家に帰り、急いで風呂に入り、やっと汗を流すことができる。しかし、凄いのはこの先である。Bさんはその後、就寝するやいなや午前4時に起床し、バイクで近所の新聞販売店に行くのである。やることはもちろん新聞配達である。その配達部数は常人の倍ほどで、かなりの作業量である。この配達の仕事が午前6時頃終わる。またまた急いで自宅に帰り、シャワーを浴び、バイクにまたがって解体工事現場に行くのだという。それを聞いたAさんはしばらく絶句し、あまりの衝撃に先輩への畏敬の念をますます深くしたという。Aさんは「休まないのですか。」聞くと「休まないね。休むと翌日から体がつらくなるから。とにかく全力でぶっ飛ぶのが好きなんだ。こんな生活をもう10年続けている。これからあと何年続けられるかわからないけどな。」
Aさんはいつも尊敬するBさんと一緒に仕事をしている。2人でロープを持ち、力一杯引いて、柱をなぎ倒している。地下足袋にニッカズボンのBさんは倒れた柱に誰よりも早く駆け寄り、柱をつかむと「ソーレ」と大声で持ち上げ、すさまじい勢いでトラックの荷台に放り投げるのである。AさんはそんなBさんを見ながらつくづく超人だなと思うのである。
