1時間ラーメン

旅行雑記

 注文してからラーメンが出てくるまでの平均時間はどのくらいであろうか。計測した事はないが、およそ15分程度か。まだ学生の時分、昼休みに、たまには学生食堂には無い何かが食したくなり、見知らぬ町にぶらぶらと出かけた。しばらく歩くと大きな橋があり、その下を電車がガタゴト走る眺めの良い場所に古びたラーメン屋を発見する。暖簾の掠れ加減からかなりの老舗とみた。この町で長年経営が続いているのであるから、当然その味は保証されているものと勝手に思い込み、店内に足を踏み入れた。

 中には老境に入りかけた親父が一人でぽつんと新聞を読んでいるだけで他に客が一人もいない。壁の時計の針が昼の12時15分を指している。私は一瞬で大きな失敗という陥穽に落ち込んだことを悟る。帰ろうかと一瞬迷ったが親父と目があい、成り行きでそのまま席に着く。私は一番早くて間違いがなさそうな醤油ラーメンを注文した。親父はまるでスローモーション映像のように立ち上がり、ナベに向かい始めた。腕をゆっくりと動かし、作業をしているようだがその動きが動物園のナマケモノに似ている。私はここを「ナマケモノ食堂」と勝手に命名した。しばらくは親父と私だけの静かな時間が流れた。湯気の立つシューという音や水道の流れるチョロチョロ音が店内にこだまする妙な空間に私は気まずい思いを感じながら親父と2人対峙していた。しかし15分経過したが何も起こらない。

 突然、店の扉がガラガラと開き、沈黙の均衡が破れるとともにサラリーマン風の男達が数人なだれ込む。彼らは口々に注文を口にするが、親父は聞いているような、いないような不思議な顔をして黙ってうなだれている。そのうちどんぶりを人数分追加したのである程度理解はしているようだ。さらに30分経過したがやはり何も起こらない。そのうちにサラリーマン達が騒ぎ出す。「おい。俺たちのラーメンはいつできる。こちらは昼休みが短いんだ。早くしてくれ。」さらに15分経過した。しかしいくら待ってもラーメンは出てこない。そのうちにサラリーマン達が怒りだした。そして「もういい。注文はキャンセルだ。」そう言い残して全員店を出てしまった。親父は「勝手に注文して、勝手に出て行きやがる。」そう吐き捨てて調理に戻った。結局私のラーメンが出てきたのは注文から1時間経過していた。しかし、その味は天文学的に不味く、しかもぬるかった。金を払い、外に出ると、私はもう2度とこの店には来ない事を誓った。

 私はラーメン屋で修行した経験はないが、相当厳しいものであろう。その筋の人に聞くと足で蹴られながら作業を体で覚える大変な時期を過ごしているようだ。そうするとこの親父は何の修行もないいわば趣味でラーメン屋を経営しているのかもしれない。会社勤めが終わり、退職金で潰れた古いラーメン屋を買い取り、ただ単にラーメンの食べ歩きが趣味だから、見よう見まねで作れば商売になると思い込み、やっているのであろう。そうなると私は一種の詐欺にあったようなものだ。

 さて、その後、弟の友人がラーメン屋を始めた。もちろん修行した経験は皆無で、ただラーメンの食べ歩きが趣味、それだけである。しばらくは友人知人が店に来て大繁盛であったが、はやり味が悪く、その後のリピートはない。最後は水道代もガス代も支払えなくなり、主人は店の中で首を吊って死んだ。

 この親父の末路が何となく気になり、しばらくしてから店のあった辺りを探すが店の場所がどうもはっきりしない。その後何度か近くまで来るが店は無く、ただ大きな橋とその下をガタゴトと走る電車が見えるだけである。もし潰れたなら空き地になっているか別の店に変わっていそうなものだが、どう見ても橋の近辺には店が建つだけの敷地自体が存在しない。私はもしかして幻想を見たのかもしれない。

その後、注文から1時間かかるラーメン屋にはついぞ出会うことは無かった。