世の中に香料を専門に作る会社があることを初めて知ったのは、某ビル管理会社で電気管理の仕事をしていた時分である。入社してしばらくは中小ビルのボイラ室に居たが、慣れてくると課長さんから「今度○○香料ビルに常駐してよ。」と言われた。このビルはかなり大きく、役員も普通の社員もいる研究所も備えた東京本社ビルであった。
朝一番で駐車場に行くと、役員が黒塗りの高級車で続々と現れ、颯爽と車から降りてエレベーターに乗り込んで行く。役員が下車すると運転手はそそくさとタワーパーキングに車を納めた。その後運転手はやることがないらしく、詰め所のようなところで終日テレビを見て過ごす。随分楽な仕事だと思い込んでいたが、何もすることが無いことも辛い事で、だからといっていつ呼び出しが係るかわからないので遊びに行くわけにもいかない。いつ何時詰め所に電話が入り「これからどこそこ行くので車出して。」などと言われることもしょっちゅうであった。時にはかなり遠方まで行くので自宅に帰るのは夜中になることも良くあるそうだ。
私は電気設備の点検や空調機の調整、時々トイレのバルブまで修理していたのでかなり多忙であったが、時間が空くと良く詰め所に顔を出していた。運転手のおっさん達は大抵タバコをふかしながら、午後のロードショウとか、不倫をテーマにしたドロドロのメロドラマ、昔の刑事ドラマや時代劇などを見ていた。私が刑事ドラマの場面見ながら「こいつ犯人じゃないの。」などと茶々を入れると、面白そうに話に乗ってくる。爆笑を伴いながらの雑談が盛り上がるとなぜか詰め所の電話が鳴り、受話器を取った運転手は「ハイ社長、わかりました、これから野田ですね。すぐお車を玄関に回します。」などと返事をしながら半分腰を上げた姿でタバコをもみ消していた。
ビルの中には香料研究所があり、中に入ると白い服を着た女性がたくさんの香料瓶を抱え、様々な種類の香料の混ぜ方を無数に繰り返しながら、くんくん犬のように鼻を鳴らしている。そのため部屋の中は種々雑多な香りが充満し、こんな雰囲気で果たして狙った香りが合成出来るか不思議であった。研究員の方は「世の中にほぼ全てのものに香料が入っています。香料が入らないものは存在しません。例え表示が無い商品であっても香料だけは微量だけ含まれています。」とのこと。例えば缶コーヒーはコーヒー香料と着色料が含まれているため、あれはコーヒーではなく、黒く着色した水にコーヒーの香りをつけただけの物だと言い切られると缶コーヒーは2度と飲みたくなくなる。同様に野菜ジュースや果物ジュースもかなり大量の香料が含まれるようだ。工場で作られた香料は液状で、これをありとあらゆる食品に添加するので香料会社は莫大な利益を上げていた。私は香料研究所に出入りすることでかなりの知識が身につき、香料の役割だけで無く、恐ろしさも知ることになる。
ある日、バス停に座っていると、隣の御仁がジュースの缶を開けた。途端にあの香料会社で調合した香料の科学成分が流れてきた。独特の鼻につく匂いに私はすぐあの会社の物だと気づいた。そのとき、香料工場の脇に積まれた大量のドラム缶が脳裏に浮かび、あの薬品を飲んでいるのか、そう考えるとなんだか気持ちが悪くなってきた。私はいまだに食品や飲料を口に入れる時は、くんくんと犬のように嗅ぎ、香料の多寡を推し量っている。
